豊橋公園の中にある吉田城。地元の人にはジョギングや散歩コースとして親しまれていますが、実は戦国時代には大軍を相手に戦った舞台でもありました。普段は静かな公園に、かつて数万の兵が押し寄せたと考えると、ちょっとワクワクしてきませんか?
🏯 なぜ吉田城が狙われたのか
戦国時代、東三河の中心に位置する吉田城は、豊川を天然の堀に取り込み、交通の要衝を押さえる要地でした。
天正3年(1575年)、織田・徳川連合と武田氏の対立が激しくなる中で、武田勝頼は西へ勢力を伸ばすために吉田城を攻める決断を下します。ここを落とせば三河支配がぐっと有利になる──そう考えられていたのです。
⚔️ 酒井忠次の防衛戦
この時、吉田城を守っていたのは徳川家康の重臣・酒井忠次。城兵はわずか1,000人ほどでした。
圧倒的兵力を持つ武田軍に対し、援軍として家康から約5,000人が駆けつけ、必死の防御戦が展開されました。
石垣や堀に守られた城を拠点に、忠次らは粘り強く抵抗。鉄砲を使った応戦や巧みな布陣で武田軍を苦しめ、ついに敵は城を落とすことができずに撤退したと伝えられています。
📖 長篠の戦いへの序章
吉田城の戦いの直後、武田軍は長篠城へ進軍。そしてあの有名な「長篠の戦い」が繰り広げられます。
もし吉田城が陥落していたら、東三河の情勢は大きく変わり、歴史も違った流れになっていたかもしれません。
吉田城が守られたことは、徳川・織田連合軍の勝利に大きな意味を持っていたのです。
🌸 今に残る吉田城跡
現在の吉田城は天守こそ残っていませんが、鉄櫓(くろがねやぐら)や石垣が往時を偲ばせます。


春は桜、夏は青葉、秋は紅葉、冬は澄んだ空気──四季折々の姿を楽しませてくれるのも魅力です。
散策の途中で石垣を見上げながら「ここを武田軍が攻めてきたんだ」と想像すると、普段のお散歩がちょっと特別に感じられます。
🚶 まとめ
豊橋の街の真ん中にある吉田城。今では市民の憩いの場ですが、かつては戦国大名たちが激しく奪い合った要衝でした。
身近な風景の裏にこんな歴史が隠れていると思うと、散歩がぐっと楽しくなりますね。
📌 詳しい資料はこちら
👉 豊橋市公式資料「家康と吉田」